2024.02.14
那須トレーナーの生い立ち
私は1993年に、福岡県の折尾に産まれました
育ちは熊本県であり、外が暗くなるまで遊ぶ元気な少年であったことを覚えています。
母親の身長が174㎝と女性としてはかなり高く、私は母親からの遺伝が強かった為、幼少期から周りとくらべて頭1つ分大きく、小学校5年生の時には身長が180㎝を超えていました。(ランドセルは背負えませんでした笑) 身長が大きかった事もあり、地元の柔道教室の先生に「柔道をしてみてはどうだ?」と声をかけていただき、小学校3年生の頃から柔道を始めます。父親は野球が好きだった為、柔道には非協力的であり、最初の頃は母親が面倒を見てくれていました。体も大きかった為、柔道を始めてから直ぐに結果を出し始め、常に県大会上位を獲得しました。元々、他の家庭よりも親の教育が厳しかったため、柔道が強くなるにつれ、両親の教育にも熱が入り「強くなるためなら」と常に階段を走り、水を飲まない昭和時代のような厳しい教育でした。(そう言えば、中学進学にあたり古賀稔彦師範にスカウトを受けたこともありました。)
そんな中、地元の中学に進学し柔道を続けますが、当時(中1)183㎝57㎏とかなりの瘦せ型であり、先輩の方々との力の差を歴然と感じる時期に入ります。
「もっと強くなるためには体を大きくしなければならない」という強い思いから、一晩で一食ご飯8合を食べる生活を始めました。当時の練習はとてもきつく、毎日16時から19時までの間走り込みを行い、その後、22時まで稽古を行うという日々を過ごし、食べても食べてもなかなか体重が増えず苦しんでいたことを今でも覚えています(笑)
中学時代は全国大会にも顔を出すようになり、厳しい合宿や永遠に続く練習試合をしていていましたが、中学2年になり体重も20㎏増え、80㎏台まで増やすことができました。(中学3年生の時は120㎏まで増えていました)また、走り込みも行っていたこともあり、90㎏近く体重がある中で100m走を11秒台で走っていたので陸上部の代わりに100m走と砲丸投げの大会(結果は九州大会2位)に出場したこともあります。結局、中学時代は柔道で全国大会に出るものの、上位入賞はできずに終わります。高校進学の際に将来性があると見極めていただき14校からスカウトを受け、陸上でも2つの高校からスカウトを受けました。高校進学の決め手となったのは山下泰裕先生をお連れになられてスカウトに来られたことから、福岡の高校に進学し柔道を続けます。当時の私は生意気な人間だった為、高校での寮生活は厳しかったのを覚えています。練習に関しては中学での練習がかなりきつかったので高校での練習は正直かなり楽に感じ、当時110㎏ほど体重もありましたが、軽量級の選手と同じスピードで朝練のランニングをこなしていました。中学時代から必ず晩飯前に毎日腕立て伏せ100回をこなしており「いつかは器具を使ってトレーニングをしたい‼」という強い想いが高校生の時にようやく叶いました。そして、このトレーニングとの出会いが私の人生を大きく変えてしまいます。私が始めて触ったベンチプレスは60㎏が最大重量でした。当時の自分の体重の半分ほどですね(笑)寮生活での一年生は一日のほとんどが雑用で終わるため、トレーニングをできる日々があまりありませんでしたが、2年生になり時間にも余裕が出てきてトレーニングに打ち込める日ようになりました。柔道の練習後は毎日のようにトレーニングに励み、当時は筋肉痛があったらトレーニングをしてはいけない。と言う理論さえ知らずただただ懸命に打ち込んでいました。
そして、高校二年生の夏にベンチプレス150㎏を上げることに成功。その時の体重は100㎏前後だったので体重の約1.5倍の重量を上げたことになります。ですが、ベンチプレスを行い過ぎて背中の筋肉を痛めてしまったのです。そしてその時に、当時高校の柔道部のOBであった「ゴッドハンド」と呼ばれる方にご縁をいただき施術を受け、足の指にテーピングと手を後ろに上げる体操を教えていただくと、一回の施術で治ったことを覚えています。その時にゴッドハンドの「人間の身体は全て繋がっている」という言葉に感銘を受け解剖学などの身体に関する勉強を始めました。これが私の独自の整体の始まりです。
その後、東海大学に進学し柔道と学業に励みます。大学生になると自由な時間が増え、寮生活時代よりも自分と向き合う時間が増えました。東海大学は柔道日本一の大学であり、当時は井上康生先生も稽古に参加されていました。また、大学はトレーニングを行う環境がとても整っていたことから更にトレーニングに打ち込みます。そして二年生の夏にはベンチプレス200㎏を達成することができました。ですがその頃から、私の中で柔道というものが自分の人生に本当に必要なのか。本当に柔道が好きなのか。このまま警察官や実業団で続けるのか。と自分の中で葛藤をするようになり、自身の将来について考えるようになります。今思えば日本一の大学であるからこそ踏ん切りがついたのか、私の人生に柔道は必要ないと強く感じ、無駄な時間を過ごすのが嫌いであった私はきっぱりと中退しました。その後は営業職、不動産、セキュリティなどの職を点々と渡り歩きますが、勉強をまともにしてこなかった私は身体を動かす仕事が向いていると感じトレーナーの世界に飛び込みます。最初は某大手のジムで働きますが、大勢の会員さんと平等に接するより、少人数でしっかり向き合いたい、という思いから、パーソナルトレーナーの道に進みます。パーソナルトレーナーとは完全に1対1の個人プレーなので一人一人と真剣に向き合うことができ、色々な会員様に支持をいただくことができました。幼少期の頃から親の教育が厳しく、感情や物事を察して生きてきた事もあり、トレーニングを指導する際に、この「察する力」が大いに活かせるようになりました。私は経営者の方やしっかりとした目的や目標のある方、美意識の高い方にご指示をいただく事が多く、これは「察する力」のおかげ様であると両親に感謝しています。そしてその後、日本建築塗装職人の会会長の青木忠史氏に「独立してみてはどうだ」とお声をかけていただき現在に至ります。また、青木忠史氏に経営においてのコンサルティングを行っていただき、オープン以来退会者0人と強い経営をつくりあげることができました。今後は更に100年企業を目指して日々精進していきたいと思っております。売上だけに目を向ければ短期間で大きな金額を稼げるかもしれませんが、私はパーソナルトレーニングを通して経営者やビジネスマンの人生をお支えする‼と強い信念も持ち、会員様の心を掴んで離さない健全な長期経営を目指しております。